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日本の歴史を紡いだ薬草医療

History of Japanese Traditional Herbal Medicine.

日本の薬草と医療の歴史について

有史以前から世界中の人々は自然の力と共に生きてきました。知恵と勇気と共に動植物や鉱物を人類として存在し始めた頃から利用してきたことは様々な痕跡や遺物からも明らかになっています。とりわけ、人体と精神に影響を及ぼす植物に対する知恵を私たちは祖先から様々な方法で受け継いできました。

古くから日本の歴史の中に登場し、様々な文化を紡いできた和の薬草。日本にも日本ならではの和製ハーブが薬草としてあり、古くから私たちの生活と共にありました。 日本では薬草というと思いつくのが漢方薬ですが、「和薬」と呼ばれ、日本固有の薬草を使った伝統療法の一つとして中国漢方と区別して和方と呼ばれ代々伝わってきたものもあります。紀元前、この和の薬草を不老長寿の妙薬と求めて中国の始皇帝は徐福という方士を日本に探索に行かせたのではないかと考えられています。今でも日本各地には薬草探索に於いて各地に様々な先進技術や知識、医療を伝えたという徐福を祀って伝説を語り継いでいる地域が多くあります。

宗教的な意味合いや医学的な意味合い、秘伝の技術として古代から現代まで伝えられてきた日本の薬草を今回は主に文化を紡いだ視点と、そして世界の流れは?という地球という一つの世界の中で自然と共に時を共有して脈々と培われてきた事をギリシャやユーナーニ(イスラム)、中国、アーユルヴェーダ、チベットなどと同じように相互に関連しあいて研鑽されていった伝統医学の一つとして歴史を紐解きながら振り返ってみたいと思います。

現在でも冬至になると柚子湯セットが出回るなど、身近な自然のハーブをお風呂に入れて健康に利用する「薬湯」文化は、平安時代の文献にも記録されています。柚子湯だけでなく、菖蒲湯や土用のうちに桃の葉湯にはいると汗疹が治るといったようなものは、ハーブに含まれる成分が清潔・温熱・保温・リラックス効果といった入浴との相乗効果で様々な症状をから人々を守る大事な療法として伝えられてきたのではないでしょうか。
 
伝存する日本最古の歴史書『古事記』の中でも有名な神話「因幡の白兎」では皮を剥かれた傷跡を、蒲の力で治したり薬草の神様=医療の神様として敬ったり。また縄文時代の遺跡から回虫の卵と蓬が見つかり、節句に草もちを食べないと腹に虫がわくという言い伝えもあるそうです。蓬には肝臓の解毒作用を助け抗菌作用があり駆虫効果を促す事を利用したのかもしれませんね。季節の行事として現在も蓬と菖蒲を節句に玄関に飾り菖蒲の節句とも呼びますが、これは葉に含まれる芳香成分が邪を祓うと言い伝えられています(※現代の菖蒲と違い古来文献に出てくる菖蒲は(石菖蒲セキショウ)で別の植物です)。中国では菖蒲といえば石菖蒲を表します。漢方では高熱時の意識障害や小児のひきつけ、癲癇、精神不安などに用いる他、腹痛や下痢、食欲不振、腫れ物、打撲傷などにも用いられます。また元々日本にあった五月の田植前に女性が身を清める行事と結び付けられたという一節もあります。女性の為のハーブとも言われる効能を持つ蓬というのも手伝ったのかもしれませんね。『日本書紀』には聖徳太子の時代、推古天皇が奈良の莵田野ウダノにて薬猟(くすりがり)を行い、菖蒲や蓬を摘んだとの記録があります。古来から植物を現代で言う体や精神に効能のある薬として健康と紐づけて利用してきた事がわかります。

日本の歴史に登場する薬草について

日本語の「薬」の語源は、出雲大社にある手がかりによるとクシ、クスシ(奇し)という語からきているそうです。これは「神秘的で、不思議力を発揮して霊妙な力を与えてくれる」という意味だそうです。

世界の数多くの神話、民話には不死の霊薬、生命の水といった神秘的なものが多く見られます。
中世ヨーロッパでは、初期の薬草書には薬草と一緒に経文を記したものがあり、「神の助け」によって患者は癒されると考えられてきた事がわかります。 古代から使われてきた薬の多くは、現代においても薬効が認められています。医学的であると同時に、薬、また薬を使った治療の行為そのものや、 療法を行うものが宗教的、神秘的なものと捉えられていたのは世界中で共通しています。

日本の歴史の中でも薬草は古くから重要な意味を持っており、日本の建国の歴史である国つくりの神話の中でも薬草をたくみに利用している様子が描かれています。医療としての薬草知識は先進技術として日本各地で利用され、伝えられてきました。

歴史年表を用いて歴史を見てみる前に、1つ考察してみます。
薬草をたくみに利用して伝えてきたといえば、忍者。誰もが忍者の秘伝など思い浮かべられるのではないでしょうか。今日では日本のみならず世界でも認知度の高い人気のキャラクターですね。

さて忍者の里は数あれどやはり忍者と言えば伊賀と甲賀。そして忍者ハットリ君のモデルでもあり、伊賀忍者の棟梁であった服部半蔵は秦氏(渡来人)の末裔とされています。服部半蔵は江戸幕府を開いた徳川家康の重要な家臣として活躍した人物です。その徳川家康と言えば不老不死の妙薬を愛用していた事でも知られています。近年、烏犀圓(うさいえん)と呼ばれる封印された薬壺が見つかり、家康の愛用していた妙薬が植物性生薬35種、動物性生薬8種を蜂蜜で練った製剤である事が発見されています。
非常に用心深い家康に全幅の信頼を置かれていたのはもしかしたら武功だけでなく、薬草の宝庫である伊賀に伝わる知識の秘伝を受け継いだ半蔵の知恵も役に立っていたのかもしれませんね。その伊賀人が古くから崇拝した神様は少彦名命という医療とお酒の神様です。少彦名命は出雲の神様となる大国主命と一緒に国を基礎を築いた神様でもあります。出雲も古来より薬草文化で知られており、発見された縄文土器にはトリカブトの加水減毒を行った痕跡も指摘されています。減毒したトリカブトの適正利用は強心剤としての効能を持ち(2000年前の神農本草経に下品として分類)出雲人はその知識を持っていたのかもと考えてみるのも面白いです。神話にて大国主命が殺されても何度も復活するというエピソードはもしかしたら強心剤であるトリカブトの薬効の事なのかもしれません。少彦名命はもしかしたら古代に大陸から伊賀に渡ってきて薬草を伝えた渡来人なのかもしれない!?というミステリーに思いを馳せられます。舟で渡ってきたそうですし、牛頭天皇として角が有る人として描かれていて、医療の神様である神農の陰も見え隠れしたり。山を二手に分けた地域の伊賀と甲賀ルーツは同じかもしれませんし、そして他の里も薬草の宝庫である事を考えると忍者の秘伝とは先進医療である薬草の知識と特殊技術も含まれているかもしれない事も見えてきます。それでは、次ページより年表にあらわしていきます。

歴史探訪

■アーユルヴェーダって?
ヒンドゥー教の神話によると、神ブラフマーは6日間でこの地を創造したが、時間が経つと地上の人々は非常に多くの病気で苦しむようになったのを見て地上に降下、アーユルヴェーダの基礎を築いた。

■大国主命オオクニヌシノミコトはいなかったのかもしれない!?
出雲の神様なのに、出雲の風土記に出てこない。有名な言葉「八雲たつ」と言ったり出雲の国を作ったのはヤツカミズオミツノミコト。越の八口を退治したのは、オオナモチノミコト。

■古代からの霊峰であり続ける無敵☆伊吹山!
武勇の名を轟かせたヤマトタケルも伊吹山のトリカブトに敢無く撤退。各時代それぞれで重要な薬草の産地として守られてきた場所。今でも周辺の方々は100種類の薬草を使い分ける珍しい地域だそうです。地理的にも日本の真ん中に位置し、植物学的にも北限、南限の境目にあり多様な生態系を持つ。

■日本全国神出鬼没。徐福って?

  • 職業は?
    方士。方士とは呪術師や祈祷師、医術、占星術、天文学、農耕、航海技術も持つマルチな学者です。
  • 不老不死の薬草を求めて津々浦々。見つかった?
    史実はまだ見つかっていませんが、たくさんあったかもしれません!クスノキ科の天台烏薬、ナルコユリと同属のアマドコロ、冠島の黒茎の蓬・九節の菖蒲、高千穂の日本山人参、昆布などなど。薬効のある植物などが徐福の求めた不老不死の薬草ではないかと伝承されています。霊峰に住む仙人に教えてもらったのものもあるかもしれません。
  • 伊賀忍者のルーツ!?
    伊賀忍者の棟梁である服部半蔵は秦氏(渡来人)の末裔とされており、そして不老不死の仙薬を求めて伊賀に来て住み着いたとする徐福。渡来人達は医療や技術神様の少彦名命を崇拝していました。渡来人がもたらした特殊技術や先進医療と徐福(渡来人)と少彦名命について伝わっている事が重なり、伊賀(渡来人)の末裔の忍者の服部半蔵のルーツは徐福(少彦名命)忍者の秘伝は先進技術と医療の知恵から発展したものだったのかも?!

■風土記とはなんぞや?
律令の施行細則を定めた格式。日本最古の薬草の種類と生産に関する国ごとの記録から当時の植物の分布や利用を推定可能。また典薬寮(てんやくりょう=宮中の医薬管轄所の薬のリストから当時の薬事情もわかる。現在断片化していない風土記は5つ。完全に残るのは「出雲国風土記」のみ。

■食育。群雄割拠の時代、「食」を大事にした群ほど強かった
食に対して真摯に向かい合った戦国時代の人々。戦や日々の生活にはもちろん、度重なる飢饉や災害への備えとして様々な工夫や知恵が発展した時代でもあります。有名な忍者の秘伝の携帯食は今の日常生活で比べてとても高カロリー!活動量が違うのでしょうね。

■【暗号解読】人類600年の挑戦、ヴォイニッチ手稿の謎がついに明らかに!?
ヴォイニッチ手稿とは、発見から600年立ってもどんな学者も研究者も暗号解読のプロも解読できなくて「解読に挑戦する事自体が人生の時間を無駄にする」と言われてきた謎の古文書です。
何とその人類最大の難問の一つとされてきたヴォイニッチ手稿の解読が植物の同定という突破口を得て、楽しみな展開になってきました。

この奇妙な文字は中南米のアステカ文明時代の失われた言葉で、どうも中南米の植物の絵だという事が判明したようです。
突破口はアメリカの植物ソサエティー(American Botanical Council)が発表した論文だそうで、
既に発見されていた古代中南米の古文書にある植物の絵とヴォイニッチ手稿にある植物の絵に共通するものを発見し、ヴォイニッチ手稿に描かれている植物の特定を発表したのです。それを突破口にヴォイニッチ手稿にある植物の絵が中南米の植物と次々に一致していき、それを手がかりとして手稿に書かれている文字解読の突破口となったようです。この発見が解読に繋がる事なのかまだわかりませんし、例え手がかりだったとしても既に失われた言語で解読は簡単には行かないかもしれません。
でも、もしかしたら解読されたヴォイニッチ手稿の謎を知れる時が来るかもしれない!という事に気づけただけでも既に期待の気持ちでいっぱいです。ニゲラやコリアンダー、ジュニパー、サボン草、山芋まで、分かってみれば様々に利用したのではないかというハーブが描かれていて植物の根まで描かれている所から根まで重要、つまり薬や食材の記された医学書や科学書なのかもしれないですね!

全裸の女性がプールのようなものに入っている奇妙な絵と言われていたこの絵も、植物療法書という目で見れば「薬草風呂では?」となんだか思えてきたりします。

植物についてもいくつかの植物はヨーロッパにあるものと類似するものが指摘されていましたが、地球上に存在しない架空の植物もあるとされていました。サボテンなど不可思議な空想の産物に思えたかもしれません。
これは、ヨーロッパを基準に長い間考察されていたという事も手伝って謎を深めたのかもしれませんね(イタリアで発見された古文書)。これが中南米と繋がったことで、アステカ文明での貴重なハーブ療法書、天体の知識が記されていたもので、大航海時代のスペインによりヨーロッパに渡ったものかもしれないという事まで推測できそうです。

話はそれますが、それにしても、「この事について考える事が人生の無駄」といわれてきたヴォイニッチ手稿への挑戦が無駄じゃなかったかもしれない事を知り、自分が想像できることは想像を超えていないのかもしれない、そして諦めない限り可能性はゼロにはならないという事を感じました。ある技術者が、後続の技術者たちへ「現状を良くしようという気持ちを持ち続けなかったら、そこに取り残されていく」という言葉があり、小さなことでも昨日より今日、今日より明日、一歩一歩、歩いて明日に進んでいこう、可能性の力、可能性の積み重ねが道を開くと感じる事ができ、私にとって感慨深い事でした。

■地動説。鎖国の日本にはどう伝わった?
徳川吉宗の時代に、実はキリスト教以外の書物の流入が許されています。コペルニクスの地動説や西洋天文学が日本にもたらされていたようです。ケプラーの法則やニュートンの力学も。この頃日本でも近代的天文学の研究が大いに発展しており医者である麻田剛立は独自に解明した惑星の公転周期に関する法則を使い、計算によって世界で初めて日食を導きだしました。西洋の計算に先駆ける事150年以上前です。ケプラーの法則と麻田剛立の理論と中国の天文書を合わせて改暦された『寛政暦』は西洋天文学に基づいて作られた日本最初の暦です。その後、太陰太陽暦の歴方である天保暦へ引き継がれ改暦が行われました。これに伴い二十四節季が太陽の軌道を24等分(空間分割)して二十四節気を求める「定気法」となったそうです。そして明治に太陽暦に改暦となります。麻田剛立は国際天文学連合により功績を称えられ、月のクレーターの一つに「ASADA」と命名されています。

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